第3のクラブ「出陳拒否」裁判、「和解」内容のポイント⑯
この連載を続けている間に、一連の「出陳拒否」裁判の「和解」に関して共通する重要な視点を与えてくれるコラムが「AERA」9月30日号に掲載されましたので、それを取り上げてこのシリーズを締め括りたいと思います。
筆者は、作家で批評家の東浩紀さんで、見出しは「世界的に強まる被害側の要求 加害側に求められる『害』の記憶」というものでした。
彼はいろいろな歴史的かつ国際的な経緯を挙げつつ論じているわけですが、私が大切だと思う視点(あるいは指摘)は次のことです。
「人間は悪を犯す。それを記憶し未来に生かすことは不可欠である。加害者の反省と被害者の救済は絶対に必要だ」
「加害側は加害を忘れる。あるいは忘れたふりをする。被害側はその忘却を阻止するため、要求を次々と過激化させる。いま世界中で起きているのはそのような悪循環だが、そこで本当に求められているのは『加害側が害の存在を記憶し続けていること』だ」
「加害側がその責務を果たさないかぎり、悪循環はとまらない」--。
これは、私が先日、このブログでもご紹介した、ワイツゼッカー元独大統領の演説での発言(=「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」)とも共鳴するとても大切な視点であると私は思っています。
東さんは、コラムの最後を、「知識人はその記憶の道こそを考えねばならない」と締めくくったわけですが、私はどんなに小さな社会・組織で起きた、どんなに小さな「加害」「被害」の出来事でも同じだと思うわけです。
「加害側」が「加害を忘れ」てはならず、「忘れたふりをする」ことなどもってのほかであり、東さんが指摘する「悪循環」を断ち切るためには常に「加害側が害の存在を記憶し続けていること」が重要なのではないでしょうか。
そして、「知識人」ならずとも、その社会や組織を束ねるそれなりの地位・立場の人たちが「その記憶の道こそを考えねばならない」と、私は思います。
「友好な関係を築く」「紛争を早期に解決する」「譲歩し合う」ということを言葉にすること、そして「和解」を成立させることはもちろん大切ですが、それに魂を吹き込み、生き生きと根付かせ、育むためには、東さんが指摘するところの「悪循環」を完全に断ち切っておかねばならず、そのためにも「本当に求められているのは『加害側が害の存在を記憶し続けていること』だ」ということになるでしょう。
少なくとも、加害者側が「和解」をある種の”免罪符”にするようなこと(そうした周囲の風潮や雰囲気も含めて)があってはなりません。
社会や組織を束ねるそれなりの地位・立場の人たちが率先して「加害を忘れる。あるいは忘れたふりをする」ようでは、どんなに小さな部分社会・組織であっても健全な発展は望むべくもありません。 (終)
※明日から、Director選挙の立候補にあたっての「誓い」や「公約」等を発表していきます。また、「公約」全文は日本語とハングルで、TICA Asia East Region公式サイトを通じて公表することにしています。
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