続・「出陳拒否」裁判Part2、被告側の主張を検証(3)
「TICAアジアへの絶え間ない批判を今もなお繰り返し書き続けている」--。
アクトのブログについて、前セクレタリー(現Asia Director)は「準備書面(1)」で、このように主張しました。
そして、これがあたかも「出陳拒否」の根拠らしき事情であったかのように主張したのです。
しかし、前セクレタリーのこの主張は、まるでどこかの独裁国家における言論弾圧、言論封殺のように思えてなりません。
もしかすると、このクラブ員の中には、前セクレタリーの主張に同調し、「だって、そうじゃないの!」という人がいるかもしれません。
しかし、それは「言論の自由」や「表現の自由」の重要性を知らず、ましてや「批判」の意味も正確に知らないがゆえの”蒙昧さ”によるのではないでしょうか。
民主主義国家にあって、「言論の自由」「表現の自由」はその根本を支える理念であり、日本においては日本国憲法で保障されているものです。
「批判」すべきことがあるなら、「批判」するのがまともな社会人であり、「批判」すべきことがありながら目をつぶって見過ごし、何事もなかったかのように無視することは民主主義を堕落させ、その組織を腐敗させることにつながります。
もちろん、誹謗中傷や正当な根拠なき非難が許されないのは言うまでもありません。
もし、前セクレタリーが「準備書面(1)」の中で「TICAアジアへの絶え間ない誹謗中傷を今もなお繰り返し書き続けている」とか、「TICAアジアへの絶え間ない根拠なき非難を今もなお繰り返し書き続けている」と主張したなら、それなりに理解できたでしょう。
しかし、「批判」したこと自体を槍玉に挙げ、「批判」することを非難するような言動は、民主主義国家に生きる国民として許せませんし、断じて許してはならないと考えています。
そもそも、「批判」とは、「人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること」(小学館「デジタル大辞泉」)で、正しい行いであるわけです。
「批判」することに対する”無知”と”無理解”が民主主義を壊し、悪しき独裁政権の誕生につながったことを忘れてはなりません。
国民や組織のメンバーのひとりひとりが、「批判」することの重要性を理解し、大切にして、「批判」されることのないように襟を正していれば、ナチスによるジェノサイドやオウム真理教のようなテロも起きなかったはずです。
TICA Asiaが現在のような状態になり、歴代のTICA Board Member/Asia Directorが軒並み裁判で訴えられているのは、ひとえに民主主義を根底で支える「批判」そのものに対する”無知”と”無理解”ゆえと言っても過言ではないのではないでしょうか。
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