「巧言」と「讒言」に踊らされる限り…(3)
「忖度」は、「巧言」という「詩」の中の次の章に出てきます。
奕奕寢廟、君子作之
秩秩大猷、聖人莫之
他人有心、予忖度之
躍躍毚兔、遇犬獲之
これも意訳を飛ばして、解説を加えた説明に移ると、次のようになります。
「奕奕(えきえき)というのは大きく立派なさまで、君子には立派な『寢廟』がある。『寢』というのは君子の居間のこと、『廟』というのは先祖の御霊屋である。これは宮殿の中でも特に大切なところである。
そういう立派な宮殿というものは、君子たる徳のある人が作って、そこに住むべきである。今の君子は徳もないのに、家だけは君子の住むべき家に居る。こういうことでは国は治まらない。
また、『秩秩たる大猷』というのはすなわち天下を治むるところの道をいう。『秩秩』とは正しいこと。『大猷』とは『大道』というのと同じ意味である。
聖人と言われるような徳のある人が出て初めて、国を治める永遠の道というものができるのである。その徳がなく君子の地位に居た所で、決して国をよく治めることは出来ない。
聖人と言える人が君子の地位に在れば、小人が讒言(注1)を構えて天下を乱すなどということはない。
高い所に立てば低い所の物は皆よく見えるのと同じことで、聖人の智を具えた人は小人の輩が何を考えて居るか何を計算して居るかということをよく洞見しているのである。
『他人心あり』というのはすなわち小人の輩がいろいろな計算をすることで、『予之を忖度す』というのは聖賢ともいわれる人がよく之を見通していることである」--。
現代において、「忖度」という言葉は「他人の心を推し量る」意味であり、このブログでも中立的な概念であると紹介しましたが、遡ってみると、推し量る対象となる「他人」は「小人の輩」であり、小人が抱きやすい邪(よこしま)な心を推し量ることであることが分かります。
こうして考えてみると、猫界においては、真の意味で「忖度」するリーダーやクラブ代表がおらず、「讒言」に踊らされ、”斟酌”に近い形で”忖度”する人が多いところに、組織としての大きな問題が横たわっていることがよく分かるのではないでしょうか。
注1)讒言=「他人を陥れようとして、事実を曲げ、偽って悪しざまに告げ口をすること」(大辞林)、「事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと」(大辞泉)