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2017年1月 7日 (土)

「出陳拒否」裁判、証人尋問で何が明らかになったか(16)

ジャッジは、『スタンダード』はあっても、主観で選びます」--。

東京地裁での証人尋問(昨年12月12日)で、前アジアリジョンセクレタリーはこう証言しました。

「確かにそうよね…」と右から左へ聞き流してしまいそうになる「証言」ですが、果たして本当にそうでしょうか?

私は、ここにこそTICAアジアが抱える大きな”問題の根”のひとつがあるように思えてなりません。

TICAアジアが健全な形で発展し、出陳者が納得する形で審査結果を受け入れるには、「ジャッジは、主観はあっても、『スタンダード』に則って選びます」でなければならないのではないでしょうか。

猫の審査は機械やロボットがするわけではなく、人間がするわけですから、「主観」を完全に排除することはできません。

しかし、「スタンダード」が定められ、細かな点数配分まで決められている以上、大原則は「スタンダード」に則って審査することにあるでしょう。

つまり、「主観」が入り込む余地があるのは仕方ないものの、できるだけその「主観」が入り込む余地を小さくしなければ、猫の審査における公平性と公正性は保てないと言えます。

冒頭の証言のように、前セクレタリーであり、現アジアディレクターが「ジャッジは主観で選びます」(主語と述語だけで言えばこうなります)と裁判所で言い切ってしまうことは、TICAのショーの公平性、公正性を自ら否定することにもつながりかねません。

このように、猫の審査において「主観」を中心に据えることは、クラブ員優先でファイナルに入れるという”主観”の入り込む余地を与えてしまうということにもつながります。

「依怙贔屓」も「主観」が為せるわざですし、「排他主義」も「排斥主義」も「差別」も「主観」がもたらすものです。

私が常々、このブログで主張している、誰の猫であっても「いい猫はいい猫」と評価するという審査姿勢は、「ジャッジは『スタンダード』に則って評価する」結果としてもたらされるものであると信じています。

その背後には「主観」の入り込む余地をできる限り小さくするというジャッジ自身の心の内の葛藤と努力があるのではないでしょうか。

強調しておきますが、私は「主観」を全否定しているわけではありません。

「スタンダード」の解釈においても、ジャッジの「主観」が少なからず入ってくることは否めません。

しかし、それでもなお、「主観」と「スタンダード」とどちらに重きを置くべきかと問われるならば、「スタンダード」に重きを置くべきであり、「スタンダード」の解釈を含めて「主観」の占める割合をできるだけ小さくしていく努力が欠かせないのではないでしょうか。

少なくとも、冒頭の前セクレタリーの発言のように、「ジャッジは、『スタンダード』はあっても、主観で選びます」と言い切ってしまっては審査の公平性と公正性から離れていってしまうだけのように思えてなりません。

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