司馬遷の数奇な人生に学ぶこと…
二大歴史書といえば、ヘロドトスの「歴史」と、司馬遷の「史記」であり、読んだことはなくても”知識”として知っている人は多いでしょう。
もちろん、私もここまで…。「歴史」も「史記」も読んだことはありません。
しかし、司馬遷の数奇な人生については断片的に知っていますし、調べればすぐに分かります。
司馬遷に思いを至らせるのであれば、「史記」だけでなく、彼の人生についてもぜひ、しっかりと心の中に刻み込みたいものです。
数あるエピソードの中で印象深いのは、やはり「李陵」という将軍を巡る出来事でしょう。
「李陵」は、前漢の皇帝「武帝」の方針に反し、単独で兵を挙げて異民族との戦いに挑んだものの、最終的には敗退し、投降の道を選ぶことになります。
「武帝」の方針に反して申し出た戦いに敗れたのですから、当時なら自刃すべきところ…。それを投降してしまったわけですから、「武帝」は激怒しました。
当然、「武帝」の臣下はそろって「李陵」を非難しました。
しかし、司馬遷は、「(李陵は)窮地に陥りながらも死力をふりしぼり敵に打撃を与えた」「自刃することを選ばなかったのは、生きて帰り、再び漢のために戦うためである」と、「李陵」をただひとり擁護したのです。
この擁護がさらなる「武帝」の怒りを誘発しました。司馬遷は即座に獄吏に連行されることになったのです。
【自戒①】多くが誰かを非難する中で、ただひとり正しいと思うことを口にし、信念に従って擁護することは大変なことだと思います。しかし、もし司馬遷の「史記」に触れ、彼の人生に思いを寄せるなら、この司馬遷のエピソードこそ自らの胸に刻みたいものです。
それから1年--。事態はさらなる苛烈な人生を司馬遷に強いる事になります。
ある敵側の捕虜から、「『李陵』が敵兵に軍事訓練を施していた」との”情報”が「武帝」のもとにもたらされたのです。
「武帝」は再び激怒し、「李陵」の一族を全て処刑してしまいました。
それだけでなく、この粛清は司馬遷にも及び、司馬遷に対しては死刑に次ぐ酷刑である「宮刑(去勢)」が処されたのです。
【自戒②】「武帝」にもたらされたこの”情報”は誤報であったと言われています。事実関係を確認せず、裏を取らず、”噂”や”臆測””邪推”を真に受けるとどういうことを引き起こすか--。司馬遷を語るなら、しっかり胸に刻みつけておきたいエピソードです。
もちろん、司馬遷にとっては大変な屈辱だったことでしょう。
彼は、「人の身に降りかかる様々な恥辱の中でも『宮刑』は最低なものだ」と言ったと伝えられています。
しかし、司馬遷はなぜ自害せず、「宮刑」を選んだのでしょうか?
彼には「大義」があったからです。
彼にとっての「大義」とは、父の遺言でもある「史記」の完成という”使命”であり、だからこそ耐えて生きる道を選んだのです。
【自戒③】司馬遷を語るなら、目先の私利私欲や薄っぺらな自己愛ではなく、「大義」に思いを寄せ、「耐えて生きる道を選ぶ」ことの辛さに寄り添わねばなりません。
クルクル変わる周囲の評判や評価を気にしていては、「耐えて生きる」ことなど到底及ばないでしょう。
「大義」があるからこそ、「耐えて生きる道を選べる」のであり、口だけでなく本当に「耐えて生きる道を選べる」ためには、自らの中に「大義」がなければできないのです。
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