「良き理解者」?それとも「都合の良い理解者」?
一番身近な人が甘かったり、間違っていたりするとだめですね…。
ましてや、そうした人を「良き理解者」と思ったり、あるいは「良き理解者」なる人物像を自分の中で創り上げ、頼ったり安心したりしていてはなおさらです。
「良き理解者」なる”幻影”を追い求める限り、決して正しい道を歩むことはできませんし、周囲に惑わされて右往左往する状況は続くことでしょう。
なぜなら、「良き理解者」という人物像はその人の「主観」が創り上げたものであり、「主観」である限り、我田引水的な思考の紛れ込む余地が大きいからです。
そして、結局のところ、自分の考えや気持ちを肯定してくれれば「良き理解者」になるだけのことに過ぎません。
「その判断は正しくありません」
「それは詭弁に過ぎません」
「それでは新たなトラブル生むだけです」
「目先の利益にこだわっているだけであり、後々、後悔することになります」等々。
こうしたことを言う人に対しては、決して「良き理解者」の”地位”が与えられることはありません。
つまり、「良き理解者」とは周囲に聞こえのいい言い方なだけであり、本当は「自分に都合の良い理解者」を求めているだけに過ぎないのです。
ちなみに、「理解者」とは「考えや理念を正しく把握し、賛意を表明する人」「その人の行動や考えなどを正しく知っている人のこと」を意味します。
しかし、往々にして人は定義を都合良く解釈し、「正しく」の部分を抜き取ってしまいます。
大切なのは「正しく把握する」ことであり、「正しく知る」ことであるにもかかわらず…です。
ですから、私は「良き理解者」という”幻影”を自分の心の中に創らないようにしています。
そうした”幻影”を敢えて創らなくても、正しいことを言う人は正しいことを言い、正しいことをする人は正しいことをし、「大義」で動く人は「大義」で動くからです。
そうした人は、結果としてその人にとっての「良き理解者」になるのかもしれませんが、それはあくまで「結果として」であって、頼るべきものでも、その言動で安心したりするものでもありません。
「良き理解者」という”幻影”と決別するためには、自分の中にしっかりとした「正義」や「大義」がなければなりません。
逆に言えば、自分の中にしっかりとした「正義」や「大義」を持たない限り、「良き理解者」なる”幻影”で補わなければ不安でたまらなくなる自分から逃れることはできないのです。
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