二転三転しても、四転五転しても…
「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」--。
誰にでも一度や二度、そういう経験はあるでしょうし、多くの人がそうなっても仕方ないと感じるとかと思います。
しかし、「主張」や「判断」にあっては、決してそうであってはなりません。
たとえ、「主張」や「判断」が二転三転して批判を受けても、四転五転して非難されたとしても、「また主張を変えると批判されてしまう」とか「判断を翻すと非難されてしまう」との思いから、”また変える”ことに二の足を踏んでしまうことがあってはならないのです。
大切なのは「正義」や「大義」に向かおうという「意思」であり、そういう「意思」さえあれば、たとえ今回は間違ってしまっても、次は「正義」や「大義」につながる「主張」や「判断」に辿り着けるのでしょう。
しかし、単にその時々の周囲の評判や評価を気にしていると、せっかく”内なる正義”や”内なる大義”を持っていても、次第に薄れ、やる気さえ失せてしまいます。
周囲の「評判」や「評価」を気にすることは、いわば”死に至る病”のようなものと言えます。
紆余曲折があっても、二転三転しても、四転五転しても、最後に辿り着くところが「正義」や「大義」(あるいは「正義」や「大義」につながる「主張」や「判断」)であればいいのです。
それによって、その人の最終評価は決まるのです。
1年後、2年後、あるいは3年後--。当時を振り返ったとき、その「主張」や「判断」が、歴史に耐えられるかどうかこそが一番大事なのです。
もし、3年前の「判断」を心から後悔しているのであれば、なおさらではないでしょうか…。
自己愛や自己保身しか考えず、「正義」や「大義」に向かおうという「意思」を持たない人も多いなかで、二転三転するのは「正義」や「大義」に向かおうという「意思」がある証しであり、その歩みを途中で止めてはなりません。
「主張」や「判断」が二転三転、四転五転することが”罪”なのではなく、「正義」や「大義」に辿り着けないことが”罪”なのです。
そして、「主張」や「判断」が二転三転、四転五転していく中で、周囲はふるいにかけられ、最後の最後に「正義」や「大義」に辿り着ければ、真の”絆”、本物の”友情”を持ち合える人が手を広げて向かい入れてくれることでしょう。
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