「悪いことをした」という意識と自覚の欠如
「いじめ」で愛する我が子を失った遺族がよく口にする言葉があります。
「いじめた生徒は大変なことをしたのだということを深く反省してほしい」--。
「いじめ」でも「嫌がらせ」でも「ハラスメント」でも、その特徴のひとつに、いじめている当の本人たちは全く「悪いことをしている」という意識も自覚もないという点が挙げられます。
”罪悪感”が全くないわけですから、「いじめ」や「嫌がらせ」はひとつやふたつで終わることなく、次から次へと「これでもか」というようにエスカレートしていくわけです。
いじめられた当事者が自殺でもすれば、警察が動き、逮捕され、刑事裁判にかけられるわけですから、本人たちも「悪いことをした」という”罪”の意識は芽生えるでしょう(芽生えない場合もあるかもしれませんが…)。
しかし、当事者が自殺せず、いじめた本人たちに何の追及の手も及ばないなら、決して「悪いことをした」という”罪”の意識が芽生えることはないでしょう。
それが組織ぐるみの「いじめ」となればなおさらのこと、たとえ”罪の意識”があったとしても希薄になり、”主犯格”とその同調圧力に乗じた”傍観者”の境界も曖昧になって、「何ひとつ悪いことはしていない」という開き直りへとつながっていくのではないでしょうか…。
趣味の世界の出来事だから、多少の「いじめ」や「嫌がらせ」「ハラスメント」は許されるのか…。
趣味の世界であっても、「いじめはいじめ」「嫌がらせは嫌がらせ」であり、なくす努力をすべきか…。
組織内で自浄作用が働かず、正当な善悪の判断が下せないなら、司法の判断を仰ぐしかないのも当然ではないでしょうか。