「正しい」か、「正しくないか」しかない(2)
「出陳拒否」に関して言えば、「正しかった」か「正しくなかった」か、どちらかしかあり得ません。
「出陳拒否」に「賛成」か「反対」かであり、「賛成派でも反対派でもない」といった中立的立場などありません。
しかし、そうは言っても、どういうわけか中立の立場を取ろうとする人たちもいます。
中立と言うと聞こえはいいですが、要は①事実関係を正確に把握しようとしない(できない)②正当な根拠と理由を持って善悪の判断を付けない(付けられない)③問題の解決を図らない(図れない)ーーの裏返しに過ぎません。
こうした中立派が出来ることと言えば、良くて問題の先送り…。
悪くすると、中立を保てず、途中で手足をばたつかせてあっちに付いたりこっちに付いたりして、収拾が付かなくなるばかりか、問題を拡大 してしまうことにしかなりません。
たとえ、「出陳拒否」の問題が片付いても、また何か別の問題が出て来て、「正しい」か「正しくない」かの判断を迫られた時に、そうした中立の立場を取ろうとする人たちは、再び判断もしなければ、自ら火中の栗を拾って解決しようともしないからです。
小さな子供ならいざ知らず、大人の世界には何事にも「覚悟」と「結果責任」が付いて回ります。
泥をかぶらず、火中の栗を拾わず、高い所から中立の立場を主張しても、それは”傍観者”として逃げているようにか映りません。