続・驚き呆れ果てた被告側「主張」(1)
素人考えかもしれませんが、私は裁判での主張は極めて神聖なものだと思っています。
神聖の同音異義語で「真正」もありますが、まさに二重の意味で「しんせい」でなければならなず、一字一句、おろそかにしてはならないはずです。
以前紹介した出陳拒否の判断を巡る被告側の主張(1月20日のブログ参照)について、みなさんは何かお気付きにならなかったでしょうか?
私は2つの主張の言葉使いの違いに強い違和感を覚えました。
趣旨としてはどちらも同じことを主張していますが、最初の文章では「主催者が任意に決定できる」としていたものを、次の文章では「被告らの自由である」と言い換えているのです。
被告とは、アジアディレクターであるクラブオーナー、その実姉のクラブ代表者、それにエントリークラークの2人です。
もちろん、「被告ら」と「ら」が入っていますから、被告4人に限定したものではありませんが、言い換えた以上、仮に無意識であったとしてもそこには何らかの“意図”があったと思わざるを得ません。
どうして敢えて「被告らの自由である」と言い換えたのか--。
その”意図”こそ、全てを解き明かすカギであり、TICAアジアに巣食う”病根”そのものなのではないかと、私には思えるのです。