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2015年1月17日 (土)

「愚」であると考えれば、すなわち”賢者”

スッタニパータ経典に「諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること--これがこよなき幸せである」という言葉があります。

しかし、そこは原始仏典のひとつだけあって、なかなか難しい問題を孕んでいます。

とういのも、この経典を最後まで読めば分かりますが、仏陀によると「悟りを開いていない人」は凡人であり、すなわち”愚者”だからです。

つまり、「賢者」に親しもうにも、親しむべき人など、ほんとんどいないことになっているからです。

ですから、もうひとつの原始仏典である「ダンマパダ」をひもとく必要があるのです。

そこにはこう書いてあります。

「もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、『愚者』だと言われる」

「愚かな者は生涯、賢者につかえても、真理を知ることが無い」

西洋哲学で言うところの「無知の知」と似た考え方と言えるかと思います。

「賢者に親しん」だり、「尊敬すべき人々を尊敬」したりするという他人任せではなく、自らが愚かであり、無知であることを知るところからスタートし、自らを尊敬できるようになる努力を積み重ねることこそが、”こよなき幸せである”と、私は思うのです。

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