「背徳者」と後ろ指さされる覚悟
今日はクリスマス。キリスト教の世界観と密接につながった作品を世に送り出した外国人作家と言えば、私にとってはアンドレ・ジッドです。「狭き門」や「一粒の麦もし死なずば」を読まれた方は多いと思いますが、私は「背徳者」の方が印象に残っています。
主人公のミシェルが「背徳者」とされるわけですが、果たして本当にそうなのでしょうか。
私はそうは思わないのです。彼が「背徳者」と呼ばれるのは世間一般の人々が言うところの不道徳な人間であったからではないと思っています。
彼は従来からの通俗的な道徳観の中にいることに抵抗し、新しい時代の新しい価値観や倫理を追求しただけではないのでしょうか? 彼の考えは旧い道徳観や慣習に凝り固まり、それらを絶対的真理と遵奉している人々にとって「背徳」と映ったにすぎないのだと思っています。
新しい時代を切り開き、新たな価値観を打ち立てるには、「背徳者」と後ろ指をさされる覚悟も必要なのかもしれません。