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2013年12月

2013年12月31日 (火)

「TICAルール」を学ぶ以前の問題(6)

TICAのルールを学べば学ぶほど、明らかになるひとつの事実。それはどんなにルールに精通していようと、後からでは違反やミスを決して見付けることが出来ないケースもあると言う事実です。

もちろん、それが出陳者に何の不利益をもたらさないミスなら大騒ぎする必要はありません。しかし、不利益をもたらし、それが本人の預かり知らないままであるなら、こうしたミスや違反は何としても防がなければなりません。

だからこそ、第一線にいるリングクラークの役割が重要になるのです。単にチェックするだけではありません。見逃してしまうことで、後々、出陳者に重大な不利益をもたらすかもたらさないかを見極める判断力も含めて重要なのです。

不利益を被ったかもしれない出陳者のことに思いを至らせることができるなら、「私とは住む世界が違います」というような個人的な価値観で、大切な議論を終わらせようとすることはなくなるはずです。

2013年12月30日 (月)

「TICAルール」を学ぶ以前の問題(5)

「細かいことに拘(こだわ)るんじゃないわよ!」「楽しければどうだっていいじゃないの!」。こういう人がいることは非常に残念なことです。とは言え、私もルールで何もかも雁字搦めにしようと思っているわけではありません。 

ルールを学ぶ以前に、ルールというものにはある「落とし穴」がつきものであり、「それだけは避けねばならない」と強く認識しているかどうかを問いたいのです。 

それはルール違反やミスによって不利益を被った出陳者が自身で気付く機会を全く得られず、事後的に検証すらできないケースがあるという事実です。 

ルール違反やミスが事後的に、全ての人々に検証可能であれば何の問題もありません。しかし、不利益を被った当の本人に全く気付かされないケースがあることを認識しているなら、「細かいことに拘るべき」ケースもあることを認識しなければなりません。

2013年12月29日 (日)

「TICAルール」を学ぶ以前の問題(4)

ルールについての議論はあくまでルールに基づいてするのが基本ですが、そこに個人の独善的な「価値観」を持ち込む人がいると、実のある議論にならないばかりか、新たなトラブルのもとになります。 

例えばShow Rules 212.7.1についてですが、これはショー終了予定時間内の規定であり、ショー終了予定時間を過ぎれば、出陳者はショーマネージャーの許可を得なくてもファイナルを待たないで帰っていいわけです。 

しかし、このルールについて議論していると、中には「ショー終了予定時間を1分でも過ぎたら、ファイナルは猫が1頭も入ってなくてもやるのですか?」「そんなショーを望んでいるのであれば、私とは住む世界が違います」と言い出す人が出てくるわけです。 

もし、ショー予定時間を過ぎて、ファイナルに入る猫のオーナーがみんな帰ってしまっていても、ルール上、問題がないことを言っているだけなのですが、こうした人には通じません。この場合はファイナルの猫を差し替えることはできず、ファイナルの猫が1頭もリングケージに入っていなくてもファイナルをするのがルール上の規定なのです。 

もし、この人の言うように「ショー終了予定時間を過ぎてファイナルをしようと思ったら、ファイナルに入れる猫のオーナーが全て帰ってしまったので差し替えます」と言うことなら、それこそ明確なルール違反です。 

望むか望まないかにかかわらず、住む世界が同じか違うかにかかわらず、ルールはルールとして考えて議論する基本が身に付いていなければ、ルールの勉強会を開いても意味はありません。

2013年12月28日 (土)

「TICAルール」を学ぶ以前の問題(3)

昨日は原文で読むことの重要性を指摘しましたが、法律英語の訳し方の面からもそのことが言えることをお伝えしたいと思います。  

法律英語では「shall」⇒「must」、「may」⇒「can」の意味合いで使うという基本を学んだかと思いますが、日本人がより良く理解するために、TICAルール翻訳に当たってはさらに工夫があってもいいのではないかと思うこともあります。  

例えばShow Rules 212.7.1について、ある翻訳は単純に「may」⇒「can」として訳し、「ファイナル発表中は、ファイナル賞を授与される猫達のみジャッジリング内にいる事が出来る」としました。 原文は「212.7.1 Only those cats receiving a final award may be present in the judging ring during final award presentation」です。  

この場合、法律用語の「may」が「be allowed to(許される)」あるいは「be entitled to(権利/資格を与えられる)」の意味でも使われることを考え合わせるなら、「出来る」と訳すのではなく、「ジャッジリング内にいる事を許されている」または「ジャッジリング内にいる権利/資格を与えられている」と訳す方が、より明確にルールの趣旨を伝えられるのではないかと思うのです。

2013年12月27日 (金)

「TICAルール」を学ぶ以前の問題(2)

昨日の続きです。「212.7.1」が他の「項(Pragraph)」と対等に比べられないと言う理由は、翻訳を読んでも分かりませんが、原文を読むとよく理解できます。 

原文には「212.7.1 Only those cats receiving a final award may be present in the judging ring during final award presentation」と書いてあります。「those cats」は212.7で記載された猫を受けているわけですから、このことからも212.7.1が独立した「項」でないことが分かります。 

昨日、例に挙げた翻訳だとそうした事情が分かりませんから、恰(あたか)も人によっては「212.7.1」が他の「項」とルール上、対等な重さを持ち、Show Rules全体に当てはまるかのような錯覚を抱かせるのです。 

日本人がTICAのルールを勉強する際には、原文に則して考えることが極めて重要であることが改めて分かかと思います。

2013年12月26日 (木)

「TICAルール」を学ぶ以前の問題(1)

TICAのルールを多くの人に学んで頂きたいと思いますが、TICAアジアにおいては「それ以前の問題」がいくつかあることに気付きます。そのひとつは「法律」や「規約」の読み方の基本についてです。

例えば法律やルールが、「編」⇒「章」⇒「節」⇒「条」⇒「項」⇒「号」という順番で細かくなっていくという基本をどれだけのメンバーが理解しているでしょうか? これを理解していないと、「○号」の規定を「○条」の規定と同じ重要度合いで並べて考えてしまうという間違いが起こります。 

TICAの場合、「By-Lows」は」から始まり、「Show Rules」は「2」で始まります。ショールールは「ARTICLE(条)」から始まっていますから、その次に来る番号は「項」、さらにその次が「号」です。例えば「Show Rules 212.7.1」は「ショールール第12条第7項第1号」になります。 

ここで大切なのは「212.7.1」は「212.7」の下位区分の細目に当たり、「212.7」を前提にして成り立っていると言うことです。「212.7」の前提を抜きに独立して考えることはできません。これをしっかり押さえておかないと、ルールを変に拡大解釈して混乱の元になりかねないのです。

2013年12月25日 (水)

「背徳者」と後ろ指さされる覚悟

今日はクリスマス。キリスト教の世界観と密接につながった作品を世に送り出した外国人作家と言えば、私にとってはアンドレ・ジッドです。「狭き門」や「一粒の麦もし死なずば」を読まれた方は多いと思いますが、私は「背徳者」の方が印象に残っています。

 

主人公のミシェルが「背徳者」とされるわけですが、果たして本当にそうなのでしょうか。
私はそうは思わないのです。彼が「背徳者」と呼ばれるのは世間一般の人々が言うところの不道徳な人間であったからではないと思っています。

 

彼は従来からの通俗的な道徳観の中にいることに抵抗し、新しい時代の新しい価値観や倫理を追求しただけではないのでしょうか? 彼の考えは旧い道徳観や慣習に凝り固まり、それらを絶対的真理と遵奉している人々にとって「背徳」と映ったにすぎないのだと思っています。

 

新しい時代を切り開き、新たな価値観を打ち立てるには、「背徳者」と後ろ指をさされる覚悟も必要なのかもしれません。

2013年12月24日 (火)

「白く塗りたる墓」にだけは…

今日はクリスマス・イブなので聖書を開いてみました。「白く塗りたる墓」という言葉をご存知でしょうか。クリスチャンの方なら今さら、説明するまでもありませんが、新約聖書の「マタイによる福音書」の23章に出てきます。

27~28節の和訳はこうなっています。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨やあらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである」

この直前の25~26節にはこうあります。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである。杯と皿の外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 盲目なパリサイ人よ。まず杯の内側をきよめるがよい。そうすれば外側も清くなるであろう」

人も地位も組織も「白く塗りたる墓」であってはならないと改めて思いました。私はクリスチャンではありませんが、常にこの教えを心の戒めとして生きていきたいと思います。

2013年12月23日 (月)

「濫觴(らんしょう)」という言葉

「濫觴(らんしょう)」という言葉をご存知でしょうか。私も知りませんでした。「結いの党」の江田憲司代表が国会内の挨拶回りで民主党の海江田万里代表に会った際に、「濫觴」と書いた紙を受け取ったそうです。

 

孔子の言葉で、「揚子江のような大河も、その源は觴(さかづき)を濫(うか)べるほどの細く小さな流れにすぎない」ということから、「物事の始まり」「起源」を意味します。

 

アジアのメンバー全員がもっとルールに精通するなど、TICAアジアを良くするための私の活動も、今は細く小さな流れにすぎないかもしれませんが、いずれは大河のようになってほしいと願っています。

2013年12月22日 (日)

ミスの指摘は嫌なもの、でも…

ミスを指摘されるのは誰にとっても嫌なものです。明らかなミスならまだしも、「あなたのミスではないでしょうか?」と、可能性として指摘された時はなおさらです。なぜなら、自分がミスを犯したかどうか自らルールを調べ、指摘してくれた人に答えねばならないからです。

しかし、私はここで人としての価値が決まるように思うのです。最低なのは「言いがかりをつけられた」と言って怒るだけで何もしない人。次に困るのがおざなりに調べて「私はミスはしていません」と開き直る人でしょう。

ミスの可能性を指摘された時、それをしっかり自分で調べあげた上で素直に謝ることはなかなか難しいですし、曖昧なままにして言い逃れできるならしてしまおうと思う気持ちも分からないではありません。

もし、ある人が言うように「住む世界が違う」と言うならば、私とは指摘された時の受け止め方が違うのでしょう。私はミスの可能性を指摘されたら、「感謝の気持ちで受け入れることができるようになれば、人としてもう一段成長できる」と考えるからです。

2013年12月21日 (土)

「親切心」が却って「仇」になる不思議

またひとつ、私の耳に残念な話が聞こえてきました。あるショーでルール違反の疑いがあるため、出陳者が当事者のひとりに親切心から指摘しました。何回かメールでやり取りしたようですが、その当事者は最後に「私とは住む世界が違います。いつまでも交わるところがない不毛な意見の言い合いになる」と言ってきたというのです。

 

この出陳者は「できるだけ事を荒立てず、内々に済まそうとした親切心が却って仇になった」と嘆いていました。私もどうしてこうなるのか不思議でなりません。なぜなら、仮に私が当事者で、もし誰かにルール違反の疑いを指摘されたらこう返信したと思うからです。

 

「このたびは貴重なご指摘をありがとうございました。ルールを改めて確認したうえで、関係者とも至急相談し、適切な対応を取らせて頂きたいと思います。私としてもこうしたご指摘を頂くことはTICAのルールに対する理解を深めるうえで大変、勉強になります。今後ともよろしくお願い致します」

 

外交も同じですが、たとえ議論が平行線でも「対話のドア」は決して一方的に閉ざしてはならないと私は思っています。アジアのメンバー全員がTICAルールの知識を深めるためにも、もっと多くの議論が必要だと思っていただけに、今回の出来事は残念でした。

2013年12月20日 (金)

「私、失敗しないので…」最終回

テレ朝のTVドラマ「ドクターX~外科医・大門未知子」の最終回は26.9%の視聴率を弾き出して第2シリーズを終えました。私の場合、いろいろな事が脳裏をよぎり、楽しさ半分という感じだったのが、残念と言えば残念です。

 

「私、失敗しないので…」という主人公の決めゼリフの裏には「失敗していい医者なんていない!」という医者としての強い志があります。そして彼女はそれを有言実行してきました。

 

これはいろいろと言い換えられると思って観ていました。「私、依怙贔屓しないので…」「私、不正しないので…」。この裏にはどんな資格・職業でも「依怙贔屓していい○○なんていない!」「不正していい△△なんていない!」という強いプライドと志があるはずです。

 

主役の女優、米倉涼子さんはもう大門役をやらないという話もあるようですが、ぜひ第3シリーズを創って欲しいと思いました。

2013年12月19日 (木)

「アマチュア」だった事がもたらした結末

猪瀬東京都知事が19日、辞表を提出し辞職会見を開きました。私が注目したのはただ1点。「(政治家として)アマチュアだった」との言葉です。TICAアジアにおいても私はこの言葉がとても重要だと感じました。

 

ジャッジとしての「プロ意識」のことだけを言っているのではありません。ディレクターにはディレクターとしての「プロ意識」が必要であり、クラークにはクラークとしての「プロ意識」が必要なはずです。ルール違反が後を絶たないのも、全てはこうしたプロ意識の欠如から来ているのではないでしょうか。

 

なぜもっとルールを詳しく知ろうとしないのか。なぜルールに精通していないことを恥ずかしく思わないのか。なぜルールをより深く理解するための議論を単純な意見の相違として矮小化しようとするのか。私には理解に苦しむことが多くあります。

 

「アマチュア」であったことが何をもたらすのか…。生きる世界は全く異なっていも猪瀬都知事の辞職から学ぶべきことは多いはずです。

2013年12月18日 (水)

「表紙」だけ変えても意味がない

「本の中身を変えず、表紙だけ変えても意味がない」。これは自民党の故伊東正義氏が首相就任を請われて、断った際の有名な言葉です。首相になりたくてなれなかった人は多くいますが、首相になって欲しいと言われて断ったのは彼だけと言われています。

私が60の公約を通じて訴え続けてきたのも、これら60の公約こそTICAアジアの中身を変えるために必要な施策と信じたからに他なりません。何をどう変えるかこそが問われていたのであり、「表紙」が変わること自体に大した意味はないはずです。

伊東氏は政治資金パーティーは開かず、勲章も断り、大平首相が急死して首相臨時代理になった後も官邸の首相執務室は決して使おうとしませんでした。彼の自宅はバブル経済の頃でさえ、雨漏りするほど生活は質素だったと伝えられています。

こうした人物でなければ組織の「中身」まで変えることはできないのかもしれません。

2013年12月15日 (日)

ただ1点において許される「頑固さ」

頑固な性格と言うのは困ったものです。これが独善や権力、地位と結び付くと、周囲はたまったものではありません。

しかし、私はたったひとつだけ、許される「頑固さ」があると思っています。それは「理想主義」という名の頑固さです。より正確に言えば「許される」ではなく、リーダーに欠くべからざる資質かもしれません。

いつの日かTICAアジアリジョンにも「理想主義」において「頑固な」リーダーが誕生する日を願って止みません。

2013年12月14日 (土)

それとこれは別の問題…

ディレクター選挙戦が猫の審査結果に影響することを心配した出陳者に、あるジャッジがこう言ったそうです。「それとこれは別の問題だと思いますよ。ジャッジにはジャッジとしてのプライドがあるし、猫の審査とディレクター選挙戦ははっきり区別するはずです。安心していいですよ」

確かにその通りです。ジャッジは猫を審査するに当たって、どのブリーダーの猫だとか、どのクラブの猫だとか、そう言うことを一切考えずに審査するものです。ディレクター選挙はディレクター選挙であり、選挙期間中も選挙後も猫の審査に影響を与えるはずなどありません。

それでもこうした取り越し苦労の出陳者がいるのは事実であり、残念なことと言えます。ジャッジがその矜持を審査結果としてきっちり示すことで、地道に解消していく努力を積み重ねることが重要なのでしょう。

2013年12月13日 (金)

選挙結果を分析すると(2)

「猫界の常識は世間の非常識」という観点から見れば、やはり投票率27.6%、棄権300票以上というのは異常と思えます。日本の昨年12月の衆院議員選挙の投票率は過去最低とは言え59%、今夏の参院議員選挙も過去3番目に低かったとは言え52.6%でした。「たかが趣味の世界だから…」なのかもしれませんが、私は残念に思います。
 
もうひとつ注目したいのは当選者の得票数が69だったことです。最近の東京のショーのエントリー数もだいたいこんな感じだったことは単なる偶然でしょうか? 偶然でないなら、今回の選挙結果はTICAアジアの総意と言うよりも、現在、ショーに出ている人による限定的な総意だったという見方が出来るかもしれません。
 
もし、そうであるなら今後もエントリー数は同じように推移して行くでしょうし、もし、そうではなくてTICAアジアの総意ということなら、「強いリーダーシップ」のもとで今後はどんどん増加していくことでしょう。今後の推移を注意深く見守りたいと思います。

2013年12月12日 (木)

選挙結果を分析して見ると…

ディレクター選挙の結果が正式に公表されました。それによると、アジアの投票総数は117で、大泉氏が69票を獲得して当選しました。2位は屋和田(22票)、3位は田崎氏(15票)、4位は菊池氏(8票)で、このほかに2人のジャッジにも票が入りました。 
 
改めて驚くのは棄権票の多さです。アジアリジョンの有権者は424人いるにも拘わらず、投票率は27.6%に過ぎませんでした。300人以上が棄権したことになります。今回は以前よりも注目されていたはずですが、大きく上がることはありませんでした。 
 
他のリジョン選挙に比べて「Write in」での投票が際立って多かったわけですが、投票率自体は今回選挙のあった全リジョン平均を若干下回る程度でしたから、悪くはなかったとも言えます。 
 
アジアリジョンの当選者の得票率は59%で、これも他のリジョンに比べて突出して高いわけでも低いわけでもありませんでした。その意味で結果だけ見れば、月並みなディレクター選挙であったことがうかがえます。 
 
私としては、アジアメンバーが私の掲げた60の全公約を「必要ない」と判断したことは残念ですが、必要ないものを無理に押し付けるつもりはもちろんありません。「9年前に戻りたい」あるいは「現状維持」で構わないと言う民意ですから、それはそれで尊重しなければならないと思っています。

2013年12月11日 (水)

「不撓不屈の精神」を悼む

南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ元大統領が亡くなりました。私はこの死を悼むと同時に、彼のモラルリーダーとしての「不撓不屈の精神」の”死”も悼む気持ちでいっぱいです。彼のような人物がTICAアジアに現れないことがとても残念でなりません。

私が敬意を払うのは、彼がその人生の大半を不正義との闘いに捧げた、人としての尊厳に対してです。猫界にあっても、アジアリジョンだけでなく、TICA全体を変え得るような「精神的リーダーシップ」と「精神的支柱」が必要だと思っています。もちろんそれは単純な「強いリーダーシップ」とは全く違います。

私は彼のある言葉を思い起こします。「私が闘っているのは白人ではなく、アパルトヘイトなのだ」。私が彼に共感を覚える理由はここにあります。私もまたアジアリジョンにおいて、闘っているのは誰かとではなく、悪い制度であり、悪い習慣であり、悪いシステムと闘っているからです。

もし、アジアの全メンバーがマンデラ氏の精神に学ぶなら、TICAアジアはもっともっと健全な組織に生まれ変われると思います。

2013年12月10日 (火)

手のひら返して権力にすり寄る?

ディレクターが交代するようです。TICA本部から正式な発表がまだないため、私も公式コメントは控えさせて頂いておりますが、とりあえず今後、注目したいのは、手のひらを返したように”権力”にすり寄る人物がどれだけいるかです。

”勝ち馬”に乗り損ねた人が、後追いで”勝ち馬”に乗ろうとするのもよく見られる光景です。「勝てば官軍」「負ければ賊軍」。次のディレクターが「信賞必罰」「論功行賞」を徹底する人物だけに、”官軍”に従うしかないという判断かもしれません。

しかし、こうした行動原理はやはり私には理解不能です。メンバーの判断基準、行動基準は「いかにTICAアジアを良くしていくか」であるべきではないでしょうか? 「いかにTICAアジアを良くするか」という至上命題の前に、「勝てば官軍」も「信賞必罰」も「論功行賞」も何の意味も持ちません。

「権力にすり寄る」のではなく、「TICAアジアを良くするために何ができ」「何をすべきか」の1点において、各メンバーが正しい行動を取り続けられるかどうかが問われていると言えます。

2013年12月 9日 (月)

何とも後味の悪い幕の閉じ方

ディレクター選挙を通じて私は「説明責任」や「デュー・プロセス」などについて主張してきたにもかかわらず、何とも後味の悪い幕の閉じ方になりました。

と言うのも、TICA本部が未だ公式発表してないにも拘らず、リジョンサイトには7日付で現ディレクター名により、唐突に「1月からのディレクターは大泉本子女史が着任されることとなりました」と公表されたからです。

このような形で結果を明らかにすることに関してTICA本部から指示があったのか、現アジアディレクターの”勇み足”なのかはよく分かりません。

いずれにしても、私は順序が間違っており、「物事には順序がある」ということを指摘したいと思います。

誰に何票入ったのかなど、まず「投票結果」の詳細を明らかにすることが「説明責任」を果たすことであり、それが選挙における「デュー・プロセス」だと思います。

今回のこのような公表の仕方は、まるで政治的に未成熟な発展途上国のようで、私は理解に苦しみます。

加えて、現アジアディレクターが今なお、日本人メンバーだけのことしか念頭になく、日本以外のアジアメンバーを蔑ろにしている現実を深く憂慮します。

どうして英語でも知らせようとしないのか、私には全く理解できません。

次の新しいTICAアジアの3年間が、こうした根本的な手続きの躓(つまず)きからスタートすることは非常に残念でなりません。

2013年12月 8日 (日)

困難な壁にぶつかった時に…

乗り越えられそうもないような困難な壁にぶつかったとき、トップはどうすべきなのでしょうか? 持ち前の「強いリーダーシップ」で叩き壊すのでしょうか? それとも自己保身と責任逃れに四苦八苦して、ただ佇(たたず)むだけでしょうか?

私はこうした壁にぶつかったとき、いつもアイルランドに伝わる寓話を思い出すことにしています。

確かこんな話でした。アイルランド人の一行が旅の途中、どんなことをしてもよじ登れないような高い壁にぶつかったそうです。この時、彼らはどうしたか? 彼らはかぶっていた帽子を思い切り、壁の向こう側に投げたのです。そうすることで、何としてでも登り、越えるしかない覚悟と決意を示したそうです。

どんな組織であっても、トップは困難な壁にぶつかった際、この寓話の旅人と同じように帽子を思い切り壁の向こう側に投げる、思い切りのいい人物であって欲しいものです。

2013年12月 7日 (土)

権力に阿(おもね)らない生き様

今年の流行語大賞にも選ばれた「倍返し」。日本のTVドラマ史上、空前の視聴率を弾き出した「半沢直樹」の決めセリフですが、この部分だけがクローズアップされているようでちょっと残念です。

と言うのも、このドラマが読者の心を捉えたのは「倍返し」そのものにあるのではないと思うからです。なんと言っても、自己保身のために権力に阿(おもね)らない生き様、正義を通そうとする姿にあるのではないでしょうか。

このドラマについて「最後のバンカー」の異名を持つ住友銀行元頭取、西川善文氏のあるインタビューでのコメントが印象的でした。イトマン事件を振り返りながら、「半沢直樹はまだまし。かつての銀行では命を脅かされるような理不尽があった」…。

では生命の危険すらある「理不尽」にどうして立ち向かえたのか? 西川氏が指摘したのは「腹をくくる」ことでした。

TICAアジアを真の意味で再生するためにはメンバーひとりひとりが「腹をくくる」必要がありました。自分のこと、それも目先の利益だけを考えて右往左往しているメンバーがいるようでは「理不尽」に立ち向かえなどしないのです。

2013年12月 6日 (金)

”粛清”の動きは加速するか?

「自分が絶対的な権力を持つ唯一の体制を作る」。こんな人物がトップにいる限り、正義も公正もあったものではありません。障害になりそうな人物は次々と消され、ついには媚(こ)び諂(へつら)う”腰巾着”しか残らないからです。

「失脚した」とか、「粛清された」とか、「処刑された」とか、ここにきて自らの権力基盤を絶対的なものにする動きが強まっていることに、強い懸念を抱かざるを得ません。一度、失脚すれば、2度と復活の可能性がないというのが、この世界の鉄則です。次に消されるのは誰か? 注視している人も多いかもしれません。

「どれほど長く忠実であったとしても、一瞬でも叛(そむ)いたら忠臣になることはできない」。ある識者がこうコメントしたのが印象的です。日本にとってはお隣の国、北朝鮮の出来事だけに無関心ではいられません。

2013年12月 5日 (木)

「露地庭の石」のようであって欲しい

ある人が「露地庭の石」について語った逸話が今も私の記憶に残っています。

確か茶道の名人だったと思います。この人物がそれは見事な庭石を手に入れ、それを自分の茶室の庭の入口付近に置きました。

ある時、客が訪れ、こう褒めました。「実に立派で素晴らしい庭石ですね」。 これを聞いた茶道の名人は表情を和ませることなく、客が帰るとすぐに、その庭石を別の場所に移してしまったというのです。

なぜだったのでしょう。彼はその理由をこう明かしたといいます。「庭石は強い個性でひと目を引き付けるものであってはならない。そこを通る客が気付かぬとも、客の心に落ち着きと安心を与えるものでなければならない」と…。

ディレクターの真の意味での存在感はある意味、この「庭石」のようなものであるべきではないかと思うのです。「強いリーダーシップ」の名のもとに権力を振りかざし、何でも牛耳ろうとし、気に入らないメンバーを排除するようなディレクターは必要ないという理由はここにあります。みなさんはどう思われるでしょうか。

2013年12月 4日 (水)

「一つ目国」の悲劇から学ぶこと

十数年前、ある方から聞いた「『一つ目国』の悲劇」というおとぎ話を思い出しました。ある人が旅の途中で道に迷い、摩訶不思議な世界に足を踏み入れてしまったのです。なんとそこの住人はみんな目が1つしかない「一つ目国」でした。

2つの目を持つのはこの旅人だけ。この国の住民はみんなが奇異な眼差しで彼を見ました。もちろん彼自身も初めは1つ目の住人に驚きました。ただその国で生活していくうちに、彼は心の奥底から不思議な思いが広がっていくのを感じたというのです。

 「もしかしたら2つの目を持つ自分の方が異常ではないのか」。そうした疑いを日増しに強くしていった彼はついに片方の目をつぶし、みんなと同じ1つ目になったのです。

たとえ初めは正義の人でも、悪に染まるうちに自分の正義を疑うようになり、ついには正義を曲げてしまう…。TICAアジアにおいてはこのおとぎ話のようなことが決して起きないことを祈るばかりです。

2013年12月 3日 (火)

「3人の石切り職人」の話

「3人の石切り職人」の話を知っているでしょうか? 確かこんな話だったと記憶しています。

教会を建設するために働いていた3人の石切り職人がいました。その横を旅人が通り過ぎようとしますが、どうも3人の様子が違います。そこで聞きました。「あなた方は何をしているのですか?」。

そうすると、手前に居た1人の石切り職人は不機嫌そうに顔を上げ、憮然とした表情でひとりを指差して「あいつは役立たずだから、辞めて貰うことにしたよ」。さらにもうひとりの方に指を向け、「あいつは罪人だから、あいつにだけは任せておけねぇ。だから俺が独りで作りあげようと頑張っているんだよ」と吐き捨てるように答えました。

旅人は、少し離れたところで汗を流しながら黙々と石を切り続ける”罪人”と名指しされたひとりにも同じことを聞いてみました。「あなたは何をしているのですか?」と…。

そうすると、彼は目を輝かせながら、こう答えました。「私はみなさんの心を癒し、安らぎを与える教会を一生懸命に造っているだけです」。

ディレクターの仕事も同じではないでしょうか。職責の先にある理想や理念を思い描きながらも目の前の仕事にただひたすら打ち込む…。私はディレクターの”価値”はそこで決まると思っています。次のディレクターにはこの石切り職人のような人が当選していることを願うばかりです。

2013年12月 2日 (月)

”プロ”としての「資質」「能力」「判断力」

「ジャッジとしての”プロ意識”はあるか?」と聞けば、全てのジャッジが「当然、あるに決まっている」と答え、「いまさら何を言いだすのか! バカにしているのか!!」と怒り出すジャッジもいるかもしれません。

では、「ディレクターとしての”プロ意識”はあるか?」と聞いて、果たして何人のディレクター経験者が「当然、あるに決まっている」と胸を張って答えるでしょうか?

ビジネス界では以前から、「”経営のプロ”とは何か」が問われ、その答えのひとつとして企業は「取締役」と「執行役員」を区別することにしました。それまでは事業執行の最終責任者が同時に取締役として経営にも携わっていましたが、「『事業を指揮すること』と『会社を経営すること』は別の資質と能力、判断力が問われる」との判断から区別することにしました。今では多くの上場企業が執行役員制度を導入しています。

私が言いたいのはディレクターにはディレクターとしての資質、能力、判断力が欠かせず、それはジャッジの資質、能力、判断力とは明確に分けて考えねばならないと言うことです。ディレクター選挙はディレクターとしての資質、能力、判断力を問うものであったはずです。次のディレクターにはディレクターとしての”プロ意識”を持つことに加え、実際にディレクターという職務の”プロ”としての能力と判断力を発揮して頂きたいと思っています。

2013年12月 1日 (日)

「1本のペンで世界を変えられる」

ニューヨークの国連本部で演説した少女がいます。パキスタンのマララ・ユスフザイさん(16)です。女子が教育を受ける権利を訴えた彼女はイスラム系武装勢力に頭を撃たれましたが、かろうじて一命を取りとめました。それでも彼女は信念を曲げず、国連で教育の大切さを訴えたのでした。

彼女は演説で「彼らは銃弾で私たちを黙らせようと考えたのです。でも失敗しました」「私は声を上げます。といっても、声高に叫ぶ私の声を届けるためではありません。声が聞こえてこない”声なき人々”のためにです」と語り、「1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそが解決策です。エデュケーション・ファースト!」と締め括りました。

一方で、ディレクター選挙の期間中、私のもとにはアクトのサイトを読んだあるジャッジから「ペンで世界は変えられないのよ! 剣の方が強いのよ! あなたはそんなことも分からないの!」と言う電話がかかってきたこともありました。

TICAアジアのなんとも悲しい現実。「無理が通って道理が引っ込む」ような言動が後を絶たないわけです。実際に「ペン」で世界を変えられるかどうかは別にして、誰がディレクターになったとしても、アジアリジョンがマララさんの言葉を信じられる良識ある人たちの集団であって欲しいと願うばかりです。

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